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新島襄と群馬県・安中教会。NHK「八重の桜」で描かれなかった、新島八重の真実。2013.10.8
副島先生のすばらしい記録です、全文引用いたしますので是非読んで下さい


副島隆彦です。今日は2013年10月8日です。
新島襄(にいじまじょう)と奥さんの八重(やえ)のお話をします。

・新島襄(にいじまじょう、1843年〜1890年)


・新島八重(にいじまやえ、1845年〜1932年)


私は先月9月7日、新島襄の出身地である群馬県安中市(ぐんまけんあんなかし)に行きました。ここに安中教会(あんなかきょうかい)という、新島襄や彼の支援者たちがつくった教会があります。そしてそこの江守秀夫(えもりひでお)さんという牧師さんにお話を聞きました。このことを中心に、新島襄の話をします。

 今、NHKの大河ドラマで「八重の桜」というのをやっています。小説の原作は、特に存在していないようです。あまり視聴率はよくないようですが、会津若松の人たちや福島県の会津の人たちはこの番組を随分喜んで見ているということです。
福島は原発と大津波と放射能問題があったので、NHKが急いで会津を中心にした幕末物のドラマを決めた。そのことは誰でもわかることですが。

 それで、私が江守(えもり)牧師に話を聞いてびっくりしたことがいろいろあって、それを中心に今回はお話しします。時代でいうと、新島襄が生まれたのは1843年ですから、ペリーが浦賀に来るちょうど10年前です。

安中(あんなか)藩主の板倉勝明(いたくらかつあきら)という人が開明的であったようで、13歳だった新島襄に蘭学を勉強させるということをしています。

新島襄自身は、安中藩の江戸上屋敷で生まれていますから、ほとんど帰ってきていません。初めて帰ってきたのが1861年といいますから18歳のときです。しかし、小さいころは安中藩の学問所に学んでいるとなっています。それは彼の経歴に書いてあることです。でも実情としてはほとんど群馬県のほうには帰ってきていません。

 藩主の板倉勝明は、蘭学を勉強しろというような論文も書いている人のようですが、本家筋に当たるのが備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)です。その藩主が板倉勝静(いたくらかつきよ)という人で、この人は調べると最後の将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の横に老中筆頭としてついていた人です。

・板倉勝静(いたくらかつきよ、1823年〜1889年)


徳川慶喜が将軍になったのはほとんど最後の1年半だけなので、平山敬忠(ひらやまよしただ)という幕臣とこの板倉勝静が横についていた。そしてアーネスト・サトウやオールコック大使に京都二条城で謁見しています。それが1866年、鳥羽・伏見の戦いの2年前です。

 この備中松山藩が持っていた快風丸(かいふうまる)という蒸気船で航海演習をやれと藩主に命ぜられて、新島襄は20歳代を過ごしているわけです。そして1864年に快風丸に乗って函館(はこだて)に移りました。この函館でロシア領事館付の司祭であるニコライ神父という人に日本語を教えています。また、世界の情勢を教わったでしょう。恐らくこのときに既に蘭学を習得しているので、片言でも新島襄はオランダ語を話したはずです。

・ニコライ・カサートキン(1836年〜1912年)


それで函館からベルリン号という船で密出国しています。何人か周りに仲間みたいな人たちが藩士でいたでしょう。それで上海でワイルド・ローヴァー号という船に乗りかえてアメリカに向かいました。このワイルド・ローヴァー号という大きな帆船の船主がハーディーという人物で、この人が新島襄の面倒を一生懸命見て、私に行ったことがあるけれども、ボストンの町のあたりの神学校やアマースト(大学)、その前にフィリップス高校という名門の高校に入れています。ブッシュの父親も息子も出たところです。

・ワイルド・ローヴァー号の船主A・ハーディー


 このアマースト大学というのは非常に重要な大学ですが、それと同じ系統のアンドーヴァー神学校、トリニティ・カレッジというべきでしょう。その後、セオロジカル・スクールに入っていますが、全部で10年間いたわけです。アンドーヴァー神学校やアマースト大学の理事を務めていたこのハーディーさんという人が、新島の才能を高く評価したのでしょう。彼に学資を一生懸命出してあげて、卒業までちゃんとさせているわけです。

 ですから苦労してアメリカに渡って何年目でしょうか。8年目ぐらい、1871年に森有礼とボストンで出会っています。森有礼は政府の役人をしていて、人材を集める係をしていたのだと思います。それでもう明治4年になっていますから、留学免許状というのを与えられて、次の年から始まる岩倉具視(いわくらともみ)を中心にした遣欧外交使節の三等書記官ということで随行しています。1年半ぐらい一緒に動いています。

・森有礼(もりありのり、1847年〜1889年)


 しかし新島は病弱だったので、よく病気で倒れています。それでもう一回アメリカに帰ってきてアンドーヴァー神学校を卒業しています。それは1874年ですから明治7年です。卒業したらその後、アメリカン・ボードという団体からの準宣教師という地位に任命されました。そして日本国に宣教せよという指令を受けているわけですから、派遣宣教師として正式に送られたことがわかります。

これは明治7年(1874年)10月31日にボストンからアメリカ大陸を横断してサンフランシスコまで鉄道で移動して、それから横浜に到着しています。たった3週間しか安中市(あんなかし)には帰っていない。それ以上はそのボストンの宗教団体、コングリゲーションから細かい命令書、指令書が出ていて、2週間の休みしかとれないとなっていたようです。それで自分のふるさとで演説をした後、最初は神戸に赴任するように命令されているのですが、すぐに京都のほうに行っています。京都で八重のお兄さんの山本覚馬(やまもとかくま)と出会いました。

・山本覚馬(やまもとかくま、1828年〜1892年)


 ここからがわからないのですが、なぜか会津藩士であった山本覚馬は1868年1月の戊辰戦争のときに薩摩藩に捕まっている。そして藩邸内に幽閉されているとなっています。しかしそこから7年後には、なぜかこの山本覚馬が京都の薩摩藩邸、上屋敷ですが、4800坪を所有しているのです。そのあたりは誰にも理由がわからないようです。管理人になっていたのか、当時は近代的所有権というのはないけれども、実際上、所有していたようです。

 それからゴードンとかデイヴィスという宣教師たちが京都に来ていて、彼らと共同で買い取る形をとっています。これは今の今出川(いまでがわ)通りを挟んで京都御所のちょうど北側です。相国寺(しょうこくじ)という大きなお寺があって、それのすぐ隣の敷地です。ここに2階建ての立派な洋館を三つぐらいつくっています。これが同志社英学校の始まりです。もう明治8年ですから、政府に対して私塾の開業願いというのを出しているわけです。

こういうことはどこの年表にも経歴にも書いてあるのですが、私がこの安中教会の江守牧師にしつこく聞いてわかったことは、コングリゲーションというのは日本では組合教会と訳します。プロテスタントの一種であるわけですが、アマースト大学やアンドーヴァー神学校は明らかにユニテリアンというプロテスタント宗教派閥の学校ですからユニテリアンのはずですが、この中のコングリゲーションという考え方の一集団でした。組合という考え方の教会です。

 ワイルド・ローヴァー号の持ち主であったのが、資金をたくさん持っていたハーディー商会の人ですから、新島襄が育てられて派遣されてきたわけです。ここでどうも、このコングリゲーションは人権思想というものを非常に重視する団体だったようで、もともとユニテリアンというプロテスタントの派閥自身はイギリスで起こって、オランダに移って、そしてアメリカにやってきていると。それで私は今からコングリゲーションとユニテリアンの関係を調べなければいけないのですが、それは直接京都に宣教師たちを送り込んできているわけです。基本は神戸とそれから京都でしょうが、そこで布教活動を始めているわけです。

 5000ドルというお金が記録にあります。これを新島襄が派遣されているときに募金として、コングリゲーションの団体の年次総会であるアメリカン・ボードという組織団体の会場で受け取っています。ハーディー氏が管理しています。この5000ドルで新島襄は自分の生活費を支え、かつ同志社英学校をつくることを命令されていたようです。この5000ドルは今の日本でいうと恐らく5億円ではなく50億円ぐらいに相当したのではないかと思います。

 もう一人、この山本覚馬も同じ動きをしているわけですが、彼が薩摩藩邸を所有しているわけです。この人は京都の商工会議所の会長みたいな職についている人です。ただ、目を患っていて白内障(はくないしょう)でほとんど失明していたと言われています。そのあたりはよくわからない。

 それで山本八重子(やまもとやえこ)が本名ですが、会津藩士で、会津若松城(あいづわかまつじょう)が官軍に攻められてちょうど1カ月間籠城(ろうじょう)したわけです。それがまさしく戊辰戦争(ぼしんせんそう)と同じ年の、奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)が攻められて開城の後、2カ月ぐらい彰義隊(しょうぎたい)が今の上野の山に立てこもっていたのですが、それが敗北した後、そのまま東北地方まで官軍が攻め込んできました。8月から会津若松城の籠城があって、その前に戸ノ口の切り通しのような郡山のほうからの入り口のあたりが官軍の攻撃で負けて、一気に城の中に恐らく1700人ぐらい入って籠城した、となっています。

 それで江守牧師がはっきり言いましたが、「スペンサー銃という銃は、大の男でも170センチぐらいないと抱え切れないと。8.5キロあるんだ」と。これは黒色火薬ですから激しい爆発力があって、1回撃つと銃身が壊れるようなものがたくさんあったようです。かつ、それを構えて撃つと鎖骨を折るそうで、座布団みたいなものを2枚重ねて大の男が撃ってようやく撃てる。5発ぐらい撃つと、もうそれ以上は撃てないという銃だったようです。

ですから山本八重(やまもとやえ)、後の新島八重(にいじまやえ)は籠城戦でお城の中にいた人はほとんど死んでしまっていたから、誰ももうしゃべれない、と思って、その後88歳まで生きていますから、つくり話を始めたようです。それで7連発の銃を自分は撃ったみたいな話を始めた。それに尾ひれがついてしまったというのが真実であると。

152〜153センチの身長の女性ではとても銃は撃てないということのようです。ただし、自分の実兄である山本覚馬(やまもとかくま)が砲術を習っていますから、小さいころからそばで見ていたことは事実でしょう。銃を構えるぐらいのことはしていただろうと思います。

 ただ、会津戦争の内側のことがよくわからなくて、何回か城から突撃して出ていって切り殺し合いをやっているんだけれども、戦争の実情はどうも、官軍にしてみればもうほとんど勝ち戦ですから、鉄砲で構えて狙い撃ちをして殺すというのが実情だったようです。

飛び出してきた城の藩士たちが、そこで10人20人死ぬという戦いを何回かやったのだと思います。城が包囲され始めたときに、白虎隊(びゃっこたい)の少年たちが戸ノ口が破られた後、飯盛山(いいもりやま)にたどり着いて遠くに城が見えて、煙が上がったのでそこで腹を切って首をかき切り合って死んだわけですが、私もそこに行きました。亡霊、怨念のようなものが今でも立ち込めています。

 それと大事なことは、この飯盛山(いいもりやま)に行った人は皆さん目撃しているのですが、私は写真を撮ってこなかったのが非常に残念であります。ムッソリーニが大きなエンタシス(円柱)を寄贈しているんです。

・飯盛山のローマ碑




これはかなり高く7〜8メートルあり、直径も1メートル以上あります。高い、古代ローマ帝国で使われていた大理石の円柱です。それには黄金の馬車や馬みたいなものが周りについていたらしいですが、日本が戦争で負けた後、進駐軍、米軍が来てそこだけは削り取られて外されてしまったようです。今でも立派な円柱がこの白虎隊の少年たちのお墓の周りに、同じ敷地のところに堂々とそびえています。

 そして5メートルぐらい離れたところには、何とヒトラーが贈った小さな、2メートルぐらいの記念碑が、ドイツ政府が贈った慰霊碑としてあります。これにはドイツのハーケンクロイツのかぎ十字がちゃんと書いてあって、なかなか立派です。

・飯盛山のドイツ碑


これがすばらしいんです。つまり会津精神というのはイギリス、アメリカに乗っ取られてしまった日本に対するイタリアやドイツからの反撃の思想として大事にされたわけです。どうもドイツからやってきた学者夫婦が称揚を始めて、ドイツやイタリアで一生懸命話して回ったようです。それから大使館を通しての会津魂に対する称揚が起きたのだと思います。それは昭和に入ってからのことでしょう。

 会津戦争に負けた後、3年間ぐらい山本八重家族はどこにいたかわからないのですが、どこかあの辺で生きていて、その後、自分の兄の山本覚馬を頼って京都へ移動してきています。これは明治4年で、その後、女紅場(にょこうば)という日本で最初の京都の女学校みたいなものをつくって、そこの舎監(しゃかん)兼教師のような仕事をして、機織り技術か何かを教えていたとされています。そのあたりを今、NHKのドラマでやっているのではないかと思います。あるいはもう既にその2年後に帰ってきた新島襄との結婚の話になっていたかもしれません。

 結婚式も京都の宣教師のデイヴィスという人の家で挙げています。そのとき山本八重が30歳で、新島襄は32歳のはずです。それがちょうど同志社英学校を開校したのと同じ年です。婚約してその次の年が結婚か。新島八重も自分のお兄さんが開明派のインテリですから、恐らく蘭学を少し勉強していたのだと思う。このあたりが裏のネットワークで、10年間ボストンにいて帰ってきた新島襄は、勝海舟(かつかいしゅう)や徳富蘇峰(とくとみそほう)たち――徳富蘇峰なんかもう弟分に当たるぐらいの人物です。それから内村鑑三(うちむらかんぞう)については、もうほとんどお弟子さんと言っていいぐらいの感じの関係です。なぜなら内村鑑三がやはりアマースト大学に留学するときの紹介状を書いたり、向こうへ斡旋をしたのは、新島襄です。

 私は江守牧師に、内村鑑三とはどういう人ですかと聞いたら、「あれはもう人の言うことを聞かない人間だ」と。
「無教会派(むきょうかいは)というキリスト教の動きが日本にずっとあるのですが」と私が聞いたら、それは矢内原忠雄(やないはらただお)という東大総長になった学者がいて、彼らのグループが内村鑑三の影響を受けて聖書を読む会というのをつくって始めたんですね。だから一連の運動家でいえば、アメリカのボストンのアメリカン・ボードという団体とつながっているはずなんです。ただし内村鑑三は「協調性のない人」という言い方をされている。

 これは私もかつて内村のことを調べたときに事実そうで、誰とでもけんかをする男で、副島隆彦に似ていると言われたこともあります。自分のお父さんの葬式のときに、誰も葬式に来るやつがいないから、お父さんの遺骸を棺おけ――棺おけといってもそのころは横長の棺おけではなくてただのおけですけれども――に入れて、墓場まで自分で大八車(だいはちぐるま)で運んだというような人物です。

 相当なかんしゃく持ちですから、札幌農学校に藩の命令のようにして行かされているはずなんですね。今の北海道大学にあるクラークの銅像というけど、クラークなんて実際は半年ぐらいしか北海道にいないわけです。ですからユニテリアン系の牧師だということはわかる。だから無教会派についてはもっと調べなければいけない。

 新島襄は47歳で死んでいますから、もう一回日本全国というか自分の地縁のあるところで布教活動をしたり、支援金を集めたりして回っている活動はしています。もう一度ヨーロッパじゅうあちこち、スイスやドイツ、イタリアを回っているんですね。そしてぐあいが悪くなるとすぐ温泉地に行って保養します。それでもう一回アメリカに渡って、1884年、ボストンでハーディー夫妻と再会しています。それで帰ってきて、やはり病状が悪いんですね。死ぬのはその5年後ですので、1890年にはもう亡くなっています。

 大磯(おおいそ)で死んでいるんだけど、一旦、前橋(まえばし)や安中(あんなか)を訪ねて伊香保温泉(いかほおんせん)にいました。なぜ神奈川県の大磯で死んでいるかというと、恐らく上州は寒いから暖かいところということで大磯の保養地に行ったわけで、大磯というのは伊藤博文(いとうひろぶみ)の拠点で、滄浪閣(そうろうかく)という建物があって私も見に行きました。そこの旅館で死んでいます。遺書を勝海舟と伊藤博文と井上馨(いのうえかおる)と大隈重信(おおくましげのぶ)に書いています。ということは、彼らは仲間だということです。

 その前、1882年に中仙道(なかせんどう)経由で安中を訪ねています。まだ明治15年ですから、恐らくこのときは人力車みたいなもので移動したと思います。明治23年ぐらいにならないと東海道線(とうかいどうせん)が全線開通しないんです。それまでは東京と大阪の間は船で大体移動しています。お金持ちたちは明治23年までは船で移動していたようです。ですから中山道を人力車で行ってもおかしくないわけです。どうもその途中あたりで、板垣退助(いたがきたいすけ)とつき合いがあって、彼が襲われたときに大津(おおつ)で出迎えていますから、助けています。そのころから10年間ぐらいは自由民権運動が一番激しかったころです。板垣退助なんていうのは自由民権運動の代表みたいになるけれども、どうも怪しい男です。さっさと権力側に回って、後に首相になっているわけです。

 このアメリカン・ボードというのが宣教師としていろいろな国に派遣する仕事をしているけれども、現地人の優秀な若者を育ててその人たちを使うことで、自分たちの派閥の宗派の勢力を拡大するという考え方がはっきりあるわけです。そのためにボストンの町で寄附を募って、布教活動をするという行動に出ているわけです。

 私がこの江守牧師と話していてびっくりしたのは、何とコングリゲーションというボストン系のキリスト教の団体であり聖書を読んでいる牧師なのに、「私は神という言葉は使いたくもない」ということを言いました。そのときにぴんときたのですが、やはりほとんど無神論(atheism)に近い思想にたどりついている人たちだとわかりました。

atheismの一歩手前で、神(いわゆるGod)を疑いながらもまだキリスト教徒のままであり続けた人たちが200年間ぐらい続くのですが、それがdeism、これは理神論(りしんろん)と訳すけれども、ヨーロッパ全体では大きな勢力としてはオランダで始まったJansenisme(ヤンセニズム)、ジャンセンとかヤンセンと呼ばれている神学者を中心にした運動があって、修道院運動もやるけれども、貧しい女性たちを集団で住まわせてお針子さんとか刺繍とかをさせたりして、ご飯を食べさせるという修身運動のようなこともやっていた大きな団体で、ヨーロッパ中で人気がありました。

 そのヤンセニズムがdeismなんです。パスカルというのは、これの大変な信者で、ローマンカトリックに対する激しい弾劾、カトリックというよりもイエズス会との激しい宗教論争をやっています。このdeismをさらに飛び越していって、ユニテリアンみたいな人たちが出てくるわけです。

 昨日、江守牧師と話していて、安中教会というのは大谷石(おおやいし)でできている、小づくりだけれども立派なチャペルなんですが、プロテスタントですから祭壇の向こうはごてごて何もしていないわけです。十字架の形だけはちゃんとステンドガラスの中に織り込んであった。

ところが何と、その右側に20センチぐらいの丸で、ダビデの紋章がちゃんとあった。左側にはハンマーと草刈りというか鍬(くわ)みたいなマークがあって、これはフリーメイソンのマークですね。コンパスと定規ではないんですけど。そのことを質問して、「フリーメイソンとの関係はわかりますか」と言ったら、「いや、それは知りません」ということでした。日本人の設計者の人が、ステンドガラスごと恐らくボストンかどこかから持ち込んだのでしょう。

 ですから、軽井沢とか日光中禅寺湖(にっこうちゅうぜんじこ)のあたりに集まっていた貿易商や外交官や牧師、宣教師たちは、ユニテリアン教会をつくっていて、その教会の2階にフリーメイソンの秘密の儀式を行う集会所があるという、割とずけずけ私が話をしても、江守さんはあまり関心を示さなかった。

ですから、フリーメイソンリーというのは商業活動や利益活動をすることを認めながら、規律ある生活を自分たちで行い、ともに商業で栄えるということを理念に置いている人たちです。やはり神という言葉を使いたくない人たちです。これはプロビデンスという摂理、合理性、ラショナリズムの別名ですが、このプロビデンスという言葉を非常に大事にする。合理性、摂理という言葉で訳します。こういう人たちなので、ユニテリアンとフリーメイソンは実は表裏の関係になっていると、ほとんど私は最近わかるようになりました。

 そしてこのユニテリアン運動の中から、ここには金持ちになった技術屋というか職人さん、職人頭みたいな人たちがたくさん技術者としても入っているわけですが、彼らの時代がもう少し進んで1840年代になりますと、労働者(ワーカー)というのが出現してしまう。このワーカーたちから生まれた思想が社会主義という思想です。ヨーロッパのいろいろな主要な都市に行くと、フリーメイソン会館というメイソンの建物があります。職人組合なのですが、この建物の中で労働者たちの地位待遇改善運動の集会を開いていたようです。

そのころは集会場というのはほとんどありません。市役所という建物(シティホール)はありますが、これは別にオーディトリアム、つまりみんなで会合を開く場所ではありません。ただホールの出入りするところです。ですからメイソン会館で社会主義者たちの運動が起こっている。このことが大事です。

 それで日本のプロテスタント各派がどうなっているかということを私が割とずけずけと聞きましたら、日本基督教団というのがあるんです。早稲田大学の北側ぐらいにあるアバコ(AVACO)というところにあって、これが戦後もこの活動をして今もあるわけです。どうも日本基督教団の中が割れていて江守さんたちは少数派になっているわけですが、いわゆるPresbyterianism(長老派)が今も一番力を持っているようです。この長老派というのはスコットランド長老派ですが、これは思想系譜でいうとカルヴァン派で、カルヴィニズムの一種です。

 カルヴァン派とルター派の戦いということはもう話をしませんが、カルヴァン派は利益活動を認めるプロテスタントの宗派です。しかし非常に保守的な面も持っています。命令に従えというような考え方で、そこまで露骨に言わないけれど、統一教会とか合同教会というような考え方を中心にして、みんなでプロテスタントが集まろうという運動をやるようです。

 それに対して江守さんたち同志社大学神学部系の人たちは、「良心において自由である」という思想を非常に大事にする。これはどうも新島襄自身が日本に持ち込んだ思想のようです。ですから、人の言うことを聞かないという、団体組織としてまとまろうとしない運動で、上からの命令という考え方を嫌います。1970年のころキリスト教の渋谷にある山の手教会とか、ああいうところの牧師で急進リベラル派の運動で、新左翼を支持する雰囲気まであった人たちを支持した牧師たちがいて、靖国神社参拝反対運動や安全平和運動をやってきた人たちで、その流れにその思想の現在のプロテスタントの少数派の運動があるようです。

 どうも話をしていると江守牧師はこのPresbyterianism(長老派)イコール、カルヴァン派と内部で争っているようだ。しかしそれでも今でも日本基督教団という日本におけるプロテスタントの大きな団体の中での総会では、203対197ぐらいと言っていましたが、自分たち少数派のほうもかなり数としてはいるんだ、と。ほかの教派の人たちもまとめてであるという言い方をしていました。

 安中教会に派遣されてきたんですかと私が江守牧師に聞いたら、「いや、派遣ではありません。招聘(しょうへい)です」という言い方をしていました。Presbyterianismだったら派遣もするんですね。組織団体に勧告されて、それに従って派遣されて牧師をやるのですが、自分たちは招かれてここに来ているんだという言い方をする。このあたりが命令や決まりを中心にできている団体ではないということがわかりました。

でも江守さん自身は、1995年の阪神・淡路大震災のときに大変な目に遭われた、と。神戸の東灘区に教会があって、その教会も全部焼けて壊れてしまったそうです。その後、安中教会に牧師として来られたのかもしれません――と、おっしゃっていた。

 ですからこのコングリゲーションの派閥の思想のことを私も調べなきゃいけないんですが、新島襄はどうも日本国内でプロテスタントが合同しようというのに反対だった人のようです。しかし新島襄は早く死んでしまっているので、きちんとした本を一冊も残していません。手紙とかそういうものだけです。アメリカン・ボードというのは、そのコングリゲーションの運動の中の、世界中に、海外に宣教師を派遣するための機関だったわけですから、どうもそことも新島襄は分裂した、物別れに終わったという言い方をしています。日本は日本独自のキリスト教の信仰をつくっていくべきだと考えたらしいです。

 同志社大学自身は、理事長を20年やった野本真也(のもとしんや)さんというショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)の研究をやっていた人で、学者ではないわけですが、その人が自分の先生だと言っていました。それに対して佐藤優(さとうまさる)さんのことを私が聞いたら、佐藤優の本を私も読みますよとおっしゃって、緒方純雄(おがたすみお)さんという神学部の教授の人に佐藤優は師事していて、組織神学という考え方なんだと言っています。それで岡林信康(おかばやしのぶやす)みたいなフォークシンガーになった人もこの神学部の出なんですよと言っていました。

 でも、それに対して大きくPresbyterianismというのはキリスト教の教義学の考え方を中心にするらしくて、それを江守さんは批判した、と。私がほかに、「例えば立教大学はどうですか」と言ったら、「あそこは聖公会のはずです」と。聖公会(せいこうかい)というのはイギリス国教会のことで、日本でいえば聖路加病院(せいろかびょういん)みたいなルークス、ルカの教えみたいなものを前面に押し出しながら。なぜならルカだけはユダヤ人ではなかったという、ふざけたくだらない理屈に従ってイギリスで主流のキリスト教なのですが、古いプロテスタントと言うべきです。

 このイギリス聖公会ぐらいになるともう、ほとんどカトリックと見まごうがごとき古臭い体制秩序派なわけです。「ヘンリーの戯言」という有名な言葉があるんですけど、それを江守さんがおっしゃっていた。ヘンリー8世が、自分がいろいろな女たちと順番に結婚したかったものだから、離婚を認めろと。いろんな女たちと言ってはいけないか。離婚を認めろと言って、それで大げんかになって、ローマンカトリックから分裂したということになっています。

 そのときに、イギリス聖公会というのは、何と日本でも三位一体説を掲げているわけですが、このトリニティ(Trinity)、アタナシウス派がつくった、ニケア宗教会議(公会議)で325年か何かに確立している三位一体説。神と子と聖霊(holy body)、この三つを合わせて全部でGodだという、ふざけた考え方です。神はデウス(ゼウス)なわけですが、子供というのはその子供のイエス・キリストです。聖霊というのはholy bodyといって何だかわけがわからない。

 日本にイギリス国教会、聖公会が来たときには何と、「神とその御子と天皇陛下」という言い方に変えたそうです。これにはびっくりした。その前は「神とその御子と女王陛下」という言葉になっているそうで、恐らくそれはイギリスでは今でもそうなのではないかと思います。ですからこのイギリス聖公会は、どうも日本基督教団に入っていないのではないかと思います。

 それ以外では、青山学院はPresbyterianですねと私が聞いたら、あそこは統一教会派というか、何でも合同にしようというPresbyterian系に乗っ取られているという言い方をしました。関西学院大学もそうなんですかと聞いたら、そうだというような言われ方をして、Presbyterianともう一つメソジスト系という大きなプロテスタントがあるわけです。

わかりやすく言うと、メソジスト系というのは大きく(言えば)アメリカ合衆国では上品なほうの、お金持ちが入るプロテスタントだそうです。それに対して同じプロテスタントの大きな集団にバプテスト系があります。

 バプテスト系というのは福音教会の系統で、バプテストもヨハネを大事にするのですが、福音主義教会系というのは本当に、言ってしまうと日本の創価学会に近いようなところまでずぶずぶに拡大してしまったわけです。だからアメリカ南部、サザン・バプテストというのですが、黒人や移民の白人たちがたくさん入っているのがこのバプテストです。

だからブッシュの息子のほうの大統領になったやつは、ビリー・グラハムという人を熱心に信仰して、自分の麻薬やら酒狂いから立ち直った男です。これがtele-evangelistといってテレビ伝道師とも言われたバプテストの中の大物ですが、これが宗教右派とも言われる連中です。ブッシュ家としては、そこの教会に行っているふりはできないので、ニューヨークの南側の、ニュージャージー州の立派なメソジストの教会に通っている、というふりをしなければいけないわけです。

 それで日本基督教団内部の分裂や対立の様子が私なりにわかりました。しかし、プロテスタント系全体としてはカトリックとの戦いになるわけで、カトリックというのは「普遍」とか「統一」という意味です。ローマンカトリックの教えは、「一つの問い」に対して「答えは一つのみ」という考え方なんだそうです。それが要するに官僚主義の人を生んで、それを中心に今はイエズス会が粘っているわけです。

 新島襄はどうも人間の存在を問うとか、人間理解を真剣に求めた人だという言い方を江守牧師はしていました。だから新島襄というのは相当本気で宣教師、牧師になり切って日本に帰ってきた人だということがわかりました。

ただお金の問題に関して言うと、そこが非常に難しいところで、組織を大きくしてお金をたくさん集めて経済法則に従った考え方をしなければいけないわけですから、そこの矛盾のところを江守牧師自身が言い切っていた人でした。自分たちはすぐ内部では考え方が合わなくなってばらばらになる、と苦笑しておりました。

この新島襄が安中で育てた弟子たちも、また京都の同志社大学神学部に学びに行くんだけど、柏木義円(かしわぎぎえん)という人がいます。この人は5代目の牧師で来ているのか、乃木将軍が率いた第3軍で日露戦争のときには参加していた。

・柏木義円(かしわぎぎえん、1860年〜1938年)


日露戦争というのは第1波攻撃が1万7000人で、第2波総攻撃で2万3000人が死んでいるんです。あのころの機関銃はホッチキスと呼ばれた。ロシア軍の機関銃でたくさん殺されたわけですが、その中に兵隊でいて、生き残って帰ってきて「非戦」という言葉を使いますが、非戦平和運動をやった人です。日本の天皇制の富国強兵という政策に反対し続けた。その意味では堺利彦(さかいとしひこ)や幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らと同じ反戦平和運動をやっています。

もう一人、湯浅治郎(ゆあさじろう)という人がいて、この人も牧師になって群馬県の県議会議長になるのですが、廃娼運動(はいしょううんどう)というのを一生懸命やった。廃娼運動というのは身売りしていって売春宿で働かされている女性たちを助けようという運動です。だから公娼制度(公的な郭(くるわ))、遊郭(ゆうかく)制度を廃止しようという運動です。これが群馬県では法律が通ったそうです。廃止になった。京都でもこの廃娼運動は成果があって、県で通った。しかし国全体としては失敗した運動です。

・湯浅治郎(ゆあさじろう、1850年〜1932年)


 調べていないからわからないが、湯浅治郎は有田屋(ありたや)さんというしょうゆ屋さんだけれど、藩の御用商人なのでお金があったのでしょう。湯浅治郎さんの息子なのか、湯浅八郎(ゆあさはちろう)という人がICU(国際基督教大学)をつくったようです。

・湯浅八郎(ゆあさはちろう、1890年〜1981年)


 新島襄はほとんど安中市では暮らしていないわけですが、帰ってきたときにはもう洗礼――そのときにはいくら何でもないか。湯浅治郎(ゆあさじろう)たちが洗礼を受けて、ロシア語の勉強をしに行って、その子供たちもそうだろうけれども、宣教師、牧師になっていっているわけです。その人脈の話等ももっとしなければいけないけど、とりあえずこれだけにしておきます。
 
(終了)

消費税大増税の裏で天下り拡大進む安倍政権の闇
財政構造改革の必要性を否定する者は少ない。


今後、日本では高齢化比率が急激に上昇する。


年金の設計が杜撰であったために、政府が約束してきた年金給付を支払うことができない。


給付条件を大幅に引き下げ、年金保険料を大幅に引き上げても資金が不足するのだと言われる。


高齢化の進行とともに公的医療保険の支出金額が激増する。


高齢化の進展は介護費用の急増をももたらす。


他方、バブルが崩壊して以降、税収は減少の一途をたどっている。


名目GDPが増加しないことが大きな理由だ。


税収が増えずに社会保障支出の金額は増加の一途をたどる。


このために財政収支が悪化し、政府の累積債務が膨張する。


このまま進めば、日本の社会保障制度が破綻を来す恐れが高まる。


社会保障制度を維持して日本財政を破綻させないための改革が求められている。


この意味で、財政構造改革が必要だ。


国民の多くはこの事情を理解する。



問題は、財政構造改革をどのような手順で実行するのかである。


政府が提案しているのは消費税増税である。


財政構造改革=消費税増税


の図式だけが語られる。


その一方で、法人税は減税なのだそうだ。


何かおかしくはないか。


2009年7月14日に野田佳彦という名の国会議員が次の演説をした。


麻生太郎内閣に対する不信任決議案に賛成する討論のなかで行った演説である。



「さて、もう一つは、官僚政治をコントロールする能力と気概がないということであります。


昨年の通常国会で、与野党が修正をして、国家公務員制度改革の基本法をつくったはずであります。でも、その基本法の精神はどんどんと後退をし、逸脱をし、そして今の、今国会の法案の提出となりました。中身は明らかに後退をしています。


加えて、一番国民が問題にしている天下りやわたりを実効性ある方法でなくしていこうという熱意が全くありません。


私どもの調査によって、ことしの五月に、平成十九年度のお金の使い方でわかったことがあります。


二万五千人の国家公務員OBが四千五百の法人に天下りをし、その四千五百法人に十二兆一千億円の血税が流れていることがわかりました。その前の年には、十二兆六千億円の血税が流れていることがわかりました。


消費税五%分のお金です。さきの首都決戦の東京都政の予算は、一般会計、特別会計合わせて十二兆八千億円でございました。


これだけの税金に、一言で言えば、シロアリが群がっている構図があるんです。


そのシロアリを退治して、働きアリの政治を実現しなければならないのです。


残念ながら、自民党・公明党政権には、この意欲が全くないと言わざるを得ないわけであります。


わたりも同様であります。年金が消えたり消されたりする組織の社会保険庁の長官、トップは、やめれば多額の退職金をもらいます。六千万、七千万かもしれません。


その後にはまた、特殊法人やあるいは独立行政法人が用意されて、天下りすることができる。そこでまた高い給料、高い退職金がもらえる。また一定期間行けば、また高い給料、高い退職金がもらえる。またその後も高い給料、高い退職金がもらえる。


六回渡り歩いて、退職金だけで三億円を超えた人もおりました。


まさに、天下りをなくし、わたりをなくしていくという国民の声に全くこたえない麻生政権は、不信任に値します。」



そして、本ブログ発で有名になった2009年8月15日の野田佳彦という名の議員による大阪街頭での「シロアリ演説」がある。


「鳩山さんが四年間消費税を引き上げないと言ったのは、そこなんです。

 
シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。

 
そこから始めなければ、消費税を引き上げる話はおかしいんです。」


こう述べておきながら、シロアリ退治なき消費税増税の法律を通した野田佳彦氏の罪状は万死に値する。


財務省は庶民に巨大増税を押し付けながら、官僚利権を切る考えなど持ち合わせていない。


官僚利権と結託し、米国に媚びへつらう安倍政権が誕生したことを幸いに、一気に官僚利権の拡大に動き始めている。


日本政策金融公庫総裁に細川興一氏が就任する人事案が発表された。


細川氏は財務事務次官経験者である。


国民は「財政構造改革」という名の詐欺に気付かなくてはならない
債務上限引き上げのタイムリミットを巡る茶番劇
2013 年 10 月 2 日 by ヤマモト
米国では今月17日が債務上限引き上げのタイムリミットと見られている。それを過ぎると米国債のデフォルト(債務不履行)が現実のものとなりかねない(それを過ぎても裏技で数日はもつといわれている)。米下院共和党は極右の茶会派に振り回されており、場合によってはタイムリミットになっても債務上限引き上げで民主党と合意できない可能性もある。

それが市場心理を冷やす最大の原因でもあるが、米国債のデフォルトはギリギリ避けるとしても、好むと好まざるとに関わらず、10月半ば頃までは米財政問題の茶番劇に世界の投資家はつきあわされてしまう。しばらくは無理をせず、ポジションを落として様子見に徹するのが無難ではあるが、余裕のある人にとっては、まさしくバーゲン・ハンティングのチャンスでもある。

今日の日本株の急落は、米財政問題が最大のネックになったのは確かだが、またしてもきのうの安倍総理のサプライズのない記者会見がもう1つの原因と言えるだろう。何か重要な発表をする時にセットされる安倍総理の講演や会見は、まさしくスカばかりで、これまでも決まって株価が急落してきた。今回ばかりは、先週NY証券取引所で「バイ マイ アベノミクス」と大見栄を切ってきたばかりだっただけに、さすがにサプライズがあるだろうと期待されていたが、またしても投資家は肩透かしを食らった格好だ。

相場全体は急落したものの、やはり鉄道インフラ整備関連株は底堅い動きとなった。冶金工(5480)は一時39円安の333円まで売られたが、引けにかけて急速に戻し、結局16円安の356円で終わった。熊谷組(1861)も5円安の225円、鉄建建設1815も6円安の309円、大豊建設(1822)に至っては14円安まで売られたものの、引けは5円高だった。この辺りが強いのは、個人よりも機関投資家のポートフォリオの入れ替え対象になっているからだろう。

米国債のデフォルト
この件に関しては、前回書いた通りで、米国債のデフォルト(債務不履行)など起こるわけないのだが、米与野党のチキンレースはタイムリミットと言われる17日を過ぎても続くものと予想する。共和党茶会派の無謀な抵抗は、イラクで頻発している自爆テロと本質が似ている。

そんなわけで、好むと好まざるとに関わらず、世界の投資家はこの無謀なチキンレースに付き合わざるを得ない。しかし、政府貨幣の裏ワザがあることを知っていれば、このチキンレースを冷静に観戦することができるだろう。もちろん、先週書いたように、ポジションは極力落としておかないと、このレースを楽しむことはできない。

いくら茶番とはいえ、欧州債務危機の際と同様、政府や金融当局が危機を収束させるつもりがなければ、危機は続いてしまう。オバマ政権は、今回ばかりは共和党がオバマケア(医療保険制度改革)の予算凍結を主張している以上、絶対に譲歩できない。つまり、政権側が株式市場や景気を人質にとっていると言ってもいいくらいだ。

だとすれば、チキンレースは市場の予想よりも長引くと見ておいた方がいい。なので、タイムリミットと喧伝されている今月17日よりも前に解決する可能性は低いような気がする。ウォールストリート・ジャーナルなどマスコミの大半は共和党寄りだから、なかなか世論も共和党が悪いとは書かないし、むしろ危機を煽る方向に動いている。

何度も言うようだが、いまは絶対に無理をせず、ポジションを落として生き残りモードで嵐が過ぎ去るのを待つべきだろう。

米国債のデフォルト
米国債のデフォルトは裏ワザで100%回避できる PART4
2013 年 10 月 11 日 by ヤマモト
米財政問題は、この週末に民主・共和両党幹部による協議が本格化する見通しで、暫定予算と、6週間程度の債務上限引き上げで合意するのではないかと伝えられた。これを好感して、NYダウは今年最大の上げ幅となる323ドル高となり、日経平均も3日連続で3桁の上げとなった。

しかしながら、本丸の債務上限引き上げが6週間分ということは、11月半ばに再びタイムリミットがやってくるわけで、そこはまさにヘッジファンドの決算対策売りが集中し始める時期に当たる。

ギャラップ社の世論調査で共和党の支持率が、調査開始以来の最低値に急落したことから、共和党幹部が慌てて妥協案を模索し始めたことが、今回の急転直下の協議入りとなったわけで、ひとまず今月17日のタイムリミットは先送りされると見ていいだろう。

もちろん、100%確実というわけではないので油断は禁物だ。マーケットの反発ムードに乗せられて、くれぐれも高値掴みしないよう、気をつけたい。ただ、新興市場など中小型のテーマ株は大きく動き出していて、日本株は一部で米国離れを起こしてきたと言ってもいい。腕に自信のある人は、そういう流れに乗ってもいいかもしれない。

が、信用取引の維持率が苦しい人は当然として、基本は様子見である。完全に米国のデフォルト(債務不履行)懸念が払しょくされてから出動しても、決して遅くはない。